※ 転生、微グロ表現有り。

 水をいっぱいに含んだ新緑の青臭い香り、一面に広がる空に朱が差し込む瞬間、集めた枯れ葉を燃やし灰になる匂い、雨で泥になった土で汚れる感触。目を閉じるとそれらは鮮明に蘇る。今よりももっと景色が広く見えて、狭い世界にいた時代の光景だった。

 「はっちゃん」と名前を呼ばれて、振り返る。小さく、ほっそりとした手が竹谷の服の裾を掴んだ。後ろには、女の子が一人立っていた。怒っているのか、泣いているのかどちらともつかない微妙な表情を浮かべている。どうやら原因は自らにあるようで、女の子はぐちぐちと竹谷に抗議をしていた。攻撃的な口調ではあるがそれでも真っ当な理論で正確に竹谷の非をつく。竹谷は頭を掻きながら、苦い笑みを浮かべた。

「しょうがないだろ。仕事なんだから」

 考えるまでもなく、さらりと自分の口から言葉が零れた。

「辞めてしまえばいいのに」
「それじゃ食っていけねえだろ。飢え死にさせる気かよ」
「仕事なんて、選択肢はたくさんあるじゃない。どうして、それなの」
「……俺が望んだからだよ」

 竹谷の右手が動き、柔らかな髪の毛を労わるように撫でた。悲痛そうに顔を顰める姿が目に入った。彼女は幼いながらも竹谷がどういう進路を選択してしまったのか、その真意を知っていた。それは彼女の兄弟が竹谷と同じ道を選択して生きているからだ。兄弟の内、幾人かがどのような終焉を迎えたのか。残酷な事実さえもきちんと知っていた。ぽとぽとと地面に水滴が落ちた。竹谷はお世辞にも成熟しているとはいえない小さな人差し指で、それを掬いあげる。



 泣くなよ、と言いたげに名前を呼ぶ。すると、ますます涙を零す。馬鹿だなあ、なんて思いながらも竹谷の胸は温かくなった。少女の目が明日腫れることになると解っていても、彼女の切実な感情が竹谷に注がれているこの状態にとてつもないほどの嬉しさを感じていた。




 はっと目を覚ます。現実世界へと意識が戻った。竹谷は自分の手の平を凝視する。角張った男らしい節々を見て、安堵した。見慣れた己の手がそこにはあった。重なるようについた切り傷も、火傷の跡もなにもない。現代人らしい、何ものにも染まっていない、綺麗な手だった。

「またか」

 独り言のようにポツリと呟いて、カーテンを開けた。外はまだ薄暗く、しんとしていた。西側の空が綺麗な青色に染まっている。竹谷は大きく息を吐いてごろんと布団に横になる。眠気よりも夢で見た映像の方が勝っており、眠りに付くことはできそうになかったが、他にすることもなく再び目を閉じた。

 竹谷は自我が芽生えてから、幾度も記憶障害のような夢を見ていた。夢見が悪いと一言で済ませられる程度ではない、とてもリアリティに溢れた現実味のある夢。現実味があるといっても、自らの日常の延長というわけではない、見たこともない景色と見たことのない人々に囲まれた、体験したことのない生活を味わう夢だった。和物の服を身につけて、今よりももっと自然見溢れた世界で、現在とは異なる常識のもと、人としての営みを全うしていく。体験したことがないという割には懐かしさを感じる。否、これがデジャブというものなのだろう。夢の中で初めて体験することのはずなのに、まるで過去に経験があったかのような懐かしさがあるのだ。

 最初にこの夢を見始めた時は別段なにも感じなかった。せいぜい小学校の低学年程度の年齢だったので、夢の中で映画を見ていたような感覚だった。そこから恐怖に変わり始めるのは二、三年経った後だ。これはどうやら普通ではないらしいと考えを改め直した。その頃になれば、自分が見る夢がかなり特殊であることに気が付く。夢の内容を明確に覚えていることも奇跡に近かったし、夢の続きを見るのだ。それはまるで延長線上にDVDが何枚も置かれ、一日ごとに夢の中で再生しているように思えるほどの正確性と連続性があった。自らの記憶が塗り変えていく恐怖を覚えたのもこの頃だ。確かに竹谷は竹谷八左ヱ門として平成の現代に生き、生活をしている。それなのに一方では別の人間になったように生を貫いている。どちらが現実なのか、と疑い始めたこともあったが、夢の中の自分の身なりからしてそれらが過去のことであると判断を下せるようになった頃には諦めにも似た感情が生まれてきていた。どうしてこのような奇妙な体験をしているのか丸で理由がわからないけれど、見てしまうものは仕方がない、と。

 元来、竹谷は楽観的な性格だった。だからこそ、そのような結論を出すことができた。もしもこれが他の人間であったならば竹谷の様に素直に受け止められはしなかったかもしれない。けれど、そんな竹谷にも乗り越えなければならない障壁が訪れる。地元にあるそこそこの偏差値の高校に進学し、夢に出てきていた少女とそっくりな人物―と出会ってしまったからだ。

「初めまして、竹谷くん」

 にっこりとほほ笑む彼女の姿に―こういうことを正気で言えるようなキャラクターではないと十分承知しているけれど―びりっとした運命的な何かが全身を駆け巡った。髪型、着ているもの、雰囲気、それらは異なるのだが、竹谷は一目見て確信めいたものを感じた。あの子だ、と。なにしろ毎晩夢で彼女を見続けているのだ。ただの他人の空似とは到底思えない。竹谷はもしかしたら彼女も自分のように夢に悩まされているのかもしれないという期待を抱いた。それは、今まで誰にも告げることができなかった己の怪奇的な現象を共有できるかもしれないという淡い願いだった。だが、彼女にはまるでそのような印象はなかった。全く初対面の会話、偽りのない笑顔を見せられ、「そうか勘違いか」という力が抜けるような、それまでの自らの夢の内容を否定されたような気持ちになった。

 竹谷の視線はことごとくを追った。異性としての感情は浮かばなかったが、竹谷は、やはり、何かしらあの奇妙な夢を見続けていることに彼女は関係性があるとみた。は、よく笑い、よく食べ、よくしゃべる女性だった。典型的な根明タイプといっていい。どちらかというと竹谷もそのような性格をしていたので、自然と二人は仲良くなった。よい友達、クラスメイトといったところだろうか。表面的に彼女を知っていくたびに、今まで夢で見ていたあの少女とは性格がそれほど似ていないということに気が付いた。

 夢の中のはいつも泣きそうな笑顔を浮かべていた。小さい頃は、自分の後ろをよちよちとついて歩いてくるような可愛い女の子だったのに、近頃のは泣き笑いのような笑顔ばかりだ。そんな彼女を見るたびに、竹谷の胸はツキンと痛んだ。

 現実と夢が混在する。何故、自分にはこのような映像が流れ込むのだろう。夢を永遠とみさせるその意図は一体何だ。自らに問うても、明確な答えなど出てくるわけもなかった。竹谷は悩み続けている。どうすればよいのだろう。夢として現れるあの映像は何のためなのだろうか。自分に何を求めているのだろうか。という人間に出会って、竹谷は尚更苦悩し続けることになった。




「後方に三人、前方に二人」

 ぽそっと低い声で警告される。竹谷はそっと目線を下げることでそれに答えた。漆黒の夜、三日月の月明かりがほんのりと辺りを照らす。僅かな風によって、がさがさと木々が揺れた。肌が焼けるような緊張が竹谷の身に襲いかかる。これほどの感覚を受けても、竹谷の身体は平然と動いていた。指摘された通り、後方からは三人の忍が顔を出した。なるほど、同業者ならば話は早いと背中を合わせて迎え撃つ。竹谷の背中を任せる相手は、旧友であり同僚である男。彼は闇に溶け込んでしまうような黒の髪の毛を靡かせて、優雅に舞った。覆面で口元が隠されているのが何とも口惜しい。歪んだ笑みを浮かべて対応しているその姿は、一目見るだけでも慄いてしまうような効果がある。彼の顔は覆面だけに隠されているわけではないのだけれど。

 竹谷が短剣を鞘に収めたときには全てが終わっていた。辺りに敵の気配がないことを確認してから、目の前の男が口を開く。

「やけに急いでんな、お前」
「別にい」

 竹谷は死体の首元に手を当てて、完全に息がないことを確認して回った。身体のいたるところに刺さった苦無も一本一本抜いていく。べっとりと血がついたそれを錆びないように布で拭って再び懐に収めた。嫌味たらしい言葉など耳元を通りすぎるばかりだ。涼しい顔で作業を続ける竹谷を後ろからのんびりと眺める相方に文句を零す。

「お前も手伝えよ」
「急いでないんじゃなかったっけ」
「急いでは無いが、ゆっくり帰るような理由はねえだろ」
「はいはい。解りましたよ。っと」

 事務的に作業を進める。生々しい音が耳に響くが、もう何度も聞いたので慣れていた。カランと鉄の冷たい音が連続的に響いた。しばらくして、相方が世間話をする様な気軽さで問い掛けていた。

「なあ」
「ん、なんだ?」
「……いいのか、お前」
「何が」
「黙って見過ごして、いいのか」

 この問いは竹谷のことを気遣ってのことだと理解する。なんだかんだいって、この相方は優しい。竹谷はくしゃっとした笑みを覆面の内で零した。背を向けているので、彼には見えるわけがない。小さく息を吐いた。白く染まった吐息は天を目掛けて、飛んでいく。竹谷は自らの感情もそこに乗せてしまえればいいのにと内心で呟いた。

「高望みしても、が可哀相なだけだ」

 本心を告げた。覚悟をしていたことだ。の隣にいるのは自分でありたいという望みは随分と昔に捨てた。最低限、門出を祝福してやることが幼馴染にできる唯一のことだろう。竹谷の頭の中には何ものにも染まっていない、白の布を纏った幼馴染の姿が浮かんでいた。それは、明日、現実になる。純白を纏った彼女の傍に自分が居ることができたらどれだけ幸せだろう。それは、一生叶うことのない願いだ。竹谷は相方に向かって「自分に気を使う暇が合ったら己のことを気を回せ」と笑いながら告げた。




 薄暗い部屋の中でぱちりと目を開けた。額に伝う汗をぐいと拭う。脳内には夢で見た映像が染みついていた。深い闇の中、自らを黒の装束で隠し、緊迫した空気の中を耐え抜く。あの異様な空間がこびり付いて離れなかった。背中も汗でびっしょりと濡れ、べとべとしている。突き刺すような緊張感を夢の中の出来事以外で味わったことは無い。彼はどれほどの世界に存在していたのだろう。そして脳裏に浮かんだ綺麗な花嫁衣装がしつこく竹谷の胸を締め付ける。焦がれる彼女の姿を想像して、己の感情であるはずがないのに酷く胸が痛んだ。

 枕元の時計に視線をやると、まだ朝の五時にもなっていなかった。先ほどの夢の内容を思い返す。とてもではないが、これから再び夢の中へ落ちようとは思えない。ストレスを発散させるために、走りにでもいこう。疲れた身体に鞭を打って立ち上がった。身体は疲労を訴えていたが、じっとしているよりかは動いて頭を空白にし、何もかもから解き放たれたいという願望の方が強かった。

 外に出ると、夏の朝の湿った匂いがした。ほんのりとさす太陽の光と、まだ熱を帯びていない気温が心地よい。

「いい匂いだ」

 すっと鼻に入り込んだ爽やかな匂いに、少しだけ顔の筋肉がゆるんだ。履きなれた運動靴の紐を絞めて、走り出す。

 夢の中の自分は、相方に対して大層な綺麗事を言っていた。竹谷は客観的にあの映像を見ているわけではない。夢の中では、竹谷はあの男自身になる。表面的には、長年の友人であり仕事上のパートナーでもある相方にたいして、何も心配する必要はないと言わんばかりに落ち着いた言葉を残していた。本人としても、随分と前に諦めたと建前の上では、少なくとも意識の上ではそう認めている。しかし、実際にキリキリと締め付けられる心臓の痛みや腹の底でぐるぐると漂っている嫉妬心、なにより身が焼かれるような彼女への想いはけして消えることが無く、むしろ当日が近づくにつれて竹谷の胸の中で大きく育っていた。

 竹谷も曲がりなりにも思春期の青年である。いままで幾度か人を好きになったことがあった。けれども、夢の中の男ほどの願望を一人の女性に対して持ち合わせたことはない。好きには色々な種類がある。それほど経験があるわけではないが、なんとなく、蓄積された人生の中の出来事からそのような結論に達することはできた。彼の彼女に対する執着は、恐ろしいと言ってもいい。彼女でないと駄目だと答えを出し、けれど自らの手の内に入れることは不可能であるという自らを投げやりにした信念のもとで彼は生き抜いている。竹谷はある仮定に辿り着いていた。男は、後悔しているのだろう。もう一度この世界でやり直したいと。そう彼は願い、自分にこのような夢を繰り返しみさせるのではないだろうか。

 そこまで思い至ったところで、不快な感情しか胸の中に存在しなくなった。押し付けにも程がある。竹谷は竹谷だ。男とは違う。異なる時間を生き、異なる感情を持ち、異なる人生を歩んでいる。どうして、彼に影響されなければならない。そう考えたことで夢をコントロールすることはできない。不快な感情とどうにもならない現実に打ちひしがれた。

 公園を通り過ぎようとした所で、前から人の気配がした。竹谷はふと視線をそちらへ向けた。前から一人の女性がダックスフンドと一緒に歩いてくる。生き物を好む竹谷は自然と足元の犬に目線がいった。傍から見ても良い毛並みをしているので、大切に育てられているのだろうなと口元がほころぶ。どんな飼い主なのだろうと思うのは当然の話で、視線は下から上へとあがった。瞬間、竹谷は足を止める。

……?」

 彼女は自分の名前が呼ばれたことにはっと顔を上げた。ひらひらと手を振りながら、駆けよってくる。朗らかな表情は教室で見るものと全く変わりない。苦笑を浮かべずにはいられなかった。どうしてこんなところで彼女に会うことになるのか。出来ることなら今のぐちゃぐちゃした感情のまま、彼女に出会いたくはなかった。は竹谷の複雑な心情に気が付くわけもなく、笑顔を零す。

「竹谷、おはよう! 朝早いねー」
「はよ。お前も、早いな。いつもこんな時間に起きてんの?」
「いや、なんだか目が覚めちゃってさあ。授業中に寝てしまいそうで怖い」

 のんびりとした、高校生らしい会話を繰り広げる。足元では犬がまだかまだかと言わんばかりに飼い主の顔を伺っていた。竹谷はしゃがんで犬の頭を撫でる。ふさふさとした毛並みは見た目通り、丁寧に手入れされていてさわり心地が良かった。そのことを彼女に告げると、嬉しそうに「でしょう。うちの家族の御姫様だからねえ」と自慢する。「幸せもんだなーお前」と言いながら竹谷は立ち上がった。そこで、ふと彼女の視線が竹谷の顔へ集中する。不安げに眉を顰めているのが見えた。

「すごい隈ができてる。眠れてないの?」
「あー……うん、まあ。ちょっと」
「悩みごとなら、話聞くけど」
「あんまり口にはしたくないから」

 「ごめん」と竹谷は告げた。彼女は親切心から、竹谷の身体に現れた不調の根源を除こうとしてそう言ったのだ。それは理解できるし、嬉しいと思っているのだが、夢の内容をまさか彼女に話すわけにもいかない。

「お前は、悩みなさそうでいいな」

 ぼそりと零した言葉には確実に妬みが込められていた。自分はこれほど夢によって苦しめられているのに、のうのうと日常を過ごしているを恨めしく思っている、正直な気持ちが口から出てしまっていた。

「私にも人並みに悩みはあるんだけどなあ」

 は心外だと言わんばかりに眉を上げ、やんわり否定した。

「竹谷が何を抱えてるのか知らないし、大小を比べる必要はないんだけど、そういう言われ方はちょっと傷つくよ」

 怒っていると印象付ける様なしぐさは表れていなかったが、はっきりと主張された内容に竹谷はぐと言葉を詰まらせた。彼女の言い分は正論である。素直に「ごめん」と口にすれば、次の瞬間にはそっと目を細めて「解ってくれればいい」と返す彼女の姿があった。

って、なんでそんなに人に優しくできんの」

 ぽつりと胸の内に浮かんだ疑問をそのまま吐き出す。

「誰に対しても優しいわけじゃないよ。竹谷は特別」
「……なんで?」
「私、竹谷のこと好きだから」

 にん、と唇の端を上げて彼女は白い歯を見せた。朝の光に照らされて、輝きを増す。今の竹谷には、彼女の無邪気な微笑みがとても眩しかった。

 じわじわと心の内が熱くなった。何かがゆっくりと湧きあがってくる。竹谷は自らの内側からの変化に僅かに気が付いた。だが、どう対処していいかわからず、感情のなすままにしていた。すると、目の前にいた彼女の瞼が二三度瞬いた。少し驚いているようだ。どうしたのだろう。そう考えていると、そっと温かい指先が、無遠慮に竹谷の頬に触れた。ぴくんと接触に合わせて肩が震える。体中の神経が頬に集中することによって、どうして彼女が戸惑ったような表情を浮かべているのか、合点がいった。

「……なんだ、これ」

 独り言を零す。竹谷の頬は濡れていた。訳が解らずぺたぺたと自分の涙を確認するように顔を触る。それは確かに竹谷の目元から零れ落ちた水だった。生温かく、雨の様にひんやりと冷たくは無い。なにより、外は雲一つない快晴である。竹谷の上だけ雨が降るなどといった怪奇現象が起きる可能性は零に等しい。涙を触って、疑問符を浮かべる竹谷をは不思議そうに見つめた。

 竹谷はなんと答えていいのか解らなくなった。どうして自らが泣いているのかそのはっきりとした理由は存在しないのだ。どう説明すればいい。涙の代名詞である玉ねぎの存在はここにはない。「目にゴミが入ったかも」と口にしかけた言葉を遮るように、彼女は指先を滑らせ落ちる涙を拭った。

「無理しなくていいよ」

 優しい声で言われる。ぽたぽた、と地面が色濃く染まった。

 これは、なんの涙だろうか。まさか、告白されて悲しかったというわけではない。かといって、それほど嬉しかったわけでもない。戸惑いが大きかった。最大の恐れていたことを彼女に告げられたといっても過言ではなった。何しろ、夢の男はこの瞬間を待ち望んでいたのだろうから。この涙は本当に自分のものだろうか。己の中にいる別の人間のものなのではなかろうか。そこまで考えたところで、いいや違うと竹谷は首を振った。この涙は自分のものである。好きだと言われた瞬間に、肩の力が抜けてしまった。竹谷は一種の囚われを彼女に感じていた。どうしても―あれほど奇妙な夢を見てしまっているのだから当然だと言えるのだが―竹谷は彼女に執着をしていた。一方で、彼女が竹谷を特別視せず、他の大勢と同等に扱っていることに憤りを感じていた。それが、今、想いの種類は異なろうとも一方通行ではないということが知れたのだ。竹谷は安堵していた。それが、涙に直結した。

 彼女はうんと手を伸ばさないと届かないほど高い位置にある自分の肩をぽんぽん叩いて、気が治まるまで付き合ってくれた。こんな姿をクラスの女子に見せてしまうなんて。羞恥が込み上げるも、彼女の温かさに触れて、涙は止め処なく流れた。情けない。か細い声で呟く。

「……かっこ悪い」
「そんなことないよ」
「男が泣くとか、普通引くだろ」
「よく泣く男は嫌だけど、人間誰でも辛いことはあるんだからさあ、悪いことじゃないよ。解決はしないけど、ある程度スッキリするでしょ」

 は、泣いてストレスを晴らして、よし次に進もうかと前向きに取り組めるようになることが多いと呆れるくらいあっけらかんとした声で言った。竹谷は鼻をすすりながら苦笑する。竹谷の中で渦巻いていたシリアスな感情を彼女は一気に吹き飛ばした。似てないな、とぽつりと思う。

 そこでは、竹谷ははっと思い返した。たった今自分は彼女から告白されたのだ。ということは、それ相応の答えを返さなければならない。

「あの、、返事は……」
「ああ、別にいらない」

 いらないとは。想定外の返答に思い切り顔を顰めると、「……何か変な事言った?」と吃驚したように言われた。驚いたのはこちらの方だという言葉を飲み込む。じと目で彼女を睨んだ。ぼたぼた垂れていた雫もしっかり引っ込んでしまった。

「ほんとに俺のこと好きなのか」
「好きよ?」
 
 さらりと挨拶をするように返されて、竹谷は更に戸惑う。自らの経験から語れば、返答を催促するのは当たり前だし、相手にも自らを好きになるように期待をすることは当然だった。答えを期待されたとしても今の竹谷にはすぐさま結論など出せなかったので、一方での言葉にほっとしていたのだが、納得がいかないのも確かだった。矛盾も甚だしいなと己の心の内で零す。ただ、疑問は拭えず「どうしてそんなに落ち着いているのか」と再度彼女に問うた。

「付き合いたいって思ってないもん。竹谷を好きでいれることが幸せだから、それだけでいいのよ」

 彼女の表情はとても満ち足りていた。「ただ知ってほしかっただけ」とは笑う。竹谷は彼女の表情をぼうと眺めた。見詰めずにはいられなかった。彼女のその気持ちの矛先が自分に向いているとなると、余計にだ。竹谷には彼女の心情は理解できなかった。もしも竹谷が彼女の立場に立っていたなら好きでいられるだけで満足はできない。もっと欲しいと思ってしまうだろう。共感はできなかった。ただ、竹谷に対してそのように告げた彼女の表情はとても、とても、綺麗だった。竹谷は見惚れてしまっていた。彼女に落ちてしまった瞬間だった。




 時間はゆっくりと過ぎ、やがて季節が変わった。竹谷の環境も大きく変化していた。寝不足に悩むことが無くなった。夢に魘されることもなくなった。しかし、なによりも変わったのは、竹谷の隣に一人の女性が立つようになったことだ。これは夢に導かれてのことか。否と竹谷は答える。竹谷は、己の意思で、を選んだ。そう信じていた。それが竹谷の幻想であってもいい。どちらにしろ、彼女と過ごせる今の時間が竹谷にとって掛け替えのないものになっていた。





手垢にまみれた

思い出なんて




111029   ( material by Phantom )

inserted by FC2 system