一人暮らしの男のアパートにはオートロックはおろかインターホンさえついていないので、ピンポンを鳴らすと確認もせずにドアを開けてしまうことをあたしは知っていた。はーいと間延びした声と足音のあと、ドアの向こうで鍵を開けた音が聞こえたところでドアノブをがっと勢いよく回して引く。この部屋の住人の呆気に取られた間抜け面が状況を正しく判断したときには、あたしは既に狭い玄関に無許可で上がりこんでいた。靴を脱ぎ散らかして部屋の奥に進むと、タカ丸が混乱したように頭を振りながらわめいた。
「な、なに? なんなの?」
「髪切ってー」
 勝手に足の長い椅子に腰掛けてここから動く気がないことを示すと、タカ丸は長い溜息を吐いた。あたしはうんざりされているのに知らぬ顔、無神経な振りをして笑った。ちらりと覗いた水回り、コップに立ててある見慣れない真新しい歯ブラシ。
「これで最後だからね」
「うん」
 タカ丸の念押しは必要以上に冷たく聞こえた。どのぐらい切ればいいの、と背中の半ばまである髪に触れながら尋ねられて、このへん、と耳の下辺りに手をやると、タカ丸が露骨に顔を顰めた。あたしはそれに応えてまた笑う。そうだ、これはあてつけなんだから、嫌がってくれなければわざわざ来た甲斐がない。あたしの首周りにマントのような(本当になんて言うんだろう。)布をかけて、足元に新聞紙を引いて、タカ丸は肩の辺りであたしの髪を一纏めにするとためらいなく一動作でじょきんと切り落とした。どう考えても意趣返しだ。あたしがけたけた体を揺らしていると、タカ丸のまとう空気は反比例するように固くなった。いいねえ。あたしは未練を断ち切りに来たのだ。最初はそんなだったくせに、ある程度軽くなった髪に鋏を入れる彼の手は繊細だ。職業意識というのか、仕事に関してはしっかりしている奴なのだ。本物の美容室でするように話しかけても捗々しい返事が戻ってくることはなく、あたしの存在が心から迷惑なのだと思い知らされて、それが小気味よくて仕方がない。つけっぱなしの夕方のテレビばかりが沈黙の中に響いていた。おわった、と背中をつつかれて、早いなと思う。三十分かそこらだ。洗い流さないトリートメントで整えられながら、シャンプーしてくれないの、と軽口を叩くと、ドライヤーの音に紛れて聞こえない振りをされた。気に食わなかった前髪を微調整させて、よし、と頷くと、ほっとしたような表情のタカ丸があたしを追い立てた。
「ねえ、頼むからもう」
「わかってるって、来ないって。ありがとね」
「そう、じゃあ」
 タカ丸は小さな容器をあたしに手渡した。ピンクのパッケージのヘアワックスだ。甘ったるい苺の匂いがする。あたしを締め出したドアがもう開かないことはわかっていたので、随分軽くなった頭を揺らしてアパートの階段を下りた。最寄の駅のゴミ箱にそれを放り込んで、あたしはすうすうする首筋を撫でる。これで許してやろうと思っていたのに。タカ丸からあの苺の匂いがしなくなっていたことに気付いたとき、恥も外聞もなく泣いてやればよかった。

 

 

 

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(「スリーストーリーズ」/1210)

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