イントレランス


 目の前に、大変に仲のよさそうな男女がいる。買い物の途中なのか、デートの途中に買い物をしたのかは知らないが、とにかくその男の手にはいくつかのショップバッグがぶら下がっている。淡いクリーム系の色をした袋は、暖かで柔らかな空気をまとっている。きっとあの袋の中には、幸せが詰まっているに違いない。体の中の、どこか深いところから、ほっと息を吐き出すと、吐いた息が白く染まった。ああ寒い。
 右を見れば、端正な顔立ちの男がいる。私の恋人、愛おしい人、そのはずの人。顎を引き、首から顎までをすっぽりとマフラーに隠してしまっている。暖かそうな黒のマフラーは、一昨年のクリスマスに私が彼へ贈ったものだ。
「どうかしたか」
「え、なんで?」
「お前がこっちを見るからだ」
「仙蔵がかっこいいなあと思って」
「ふん」
 鼻で笑って、まったく動じるそぶりもない。かわいげのかけらもない男だ、とつぶやきそうになって、やめた。そんなのもとから知ってる。
 あの大変に仲のよさそうな男女は微笑みあいながら角を曲がった。姿が見えなくなって、追いかけたい気持ちがふつふつとわきあがるが、私たちが向かう場所へはあいにくそのまま直進するしかない。
 彼らの行きつく先のことを、思った。あの淡い色をしたショップバッグたちが象徴するような、かわいらしい、温かみにあふれた部屋なのであろう。台所に立つ女の子は、あの男の子のために暖かい手料理を用意するのだ。外は寒かったねえなんて話しながら、笑顔をほころばせながら。台所から漂ってくる温かく優しいにおいに、男の子のおなかは絶えず鳴き声を上げる。しかし男の子はそんなことなどには全く気が付かないで、ただ愛おしい彼女の、自分のために手料理を振舞おうとする彼女の後姿を、うっとりと見つめる。もちろん、その視線はこの世に存在する何よりも柔らかく、何よりも熱を持っている。
「何を考えてる」
「え?」
「なんだか、ずいぶんひどい顔をしていたぞ」
 まあ、いつものことだが。そんな一言が余計であり、かつ、もっとも仙蔵らしい一言でもある。自分の手のひらでぺたりと顔に触れてみても、いつもと何の変りもない肌がそこにあるだけだった。
「考え事か、めずらしい」
「いや、考え事ってほど、真剣なものじゃないけど」
「ふうん?」
 いたって興味などない、とでも言うかのような、声だけの返事だった。感情というものが乗せられた仙蔵の声を最後に聞いたのは、一体いつのことだろう。


 と仙蔵が付き合い始めたのは、ちょうどその日から五年と三日前のことだ。同じ大学の同じ学部、同じ学科。入っていたゼミナールが同じで、仙蔵がよりも一つ上の学年であった。情熱的な愛の言葉などでその関係が始まったわけではない。この男、立仙蔵は、情熱的な言葉とは無縁な男であるといっても過言ではないであろう。この二人の関係の始まりは、どちらかといえば、ひんやりとしたその指先から始まったのだ。
 さかのぼれば小学生、少なくとも物心ついた時にはもう、の指先は冷え切っていた。昔から重度の冷え症であり、懸命に親がその指を温めようと料理に工夫を凝らし、温泉を巡り、温かい息を毎日吐きかけても、数秒もすればたちまち元の冷たい指に戻ってしまう。としてはむしろそれが当然であり、人の指というのは元来冷たいものである、そういう認識のもと人生を歩んでいた。
 ところが、その認識はある日強い衝撃を持って否定される。
「お前の指、切り落としたくなるくらい冷たいな」
 ゼミナールの忘年会だった。帰り道、電車が同じで、と仙蔵は終電に乗るべく人気のないホームに二人で立っていた。本格的な冬が始まろうという時期に吹き付ける風は当然に冷たい。自然と二人は通常の先輩後輩関係の距離以上に近く、寄り添っていた。そうして偶然に触れあう手。どきりとする、甘酸っぱい記憶の一つとして残るはずだったこの出来事も、仙蔵の一言にはひるんだ。この男なら、やりかねない。そう思ってしまったのも、これまでの仙蔵の行動を考えれば無理もない話であった。
 切り落とされてはたまらないとすぐに手をコートのポケットにひっこめる。ぎゅうと握りしめた掌は、相変わらず冷たいままであったけれど、その中央にはなぜか小さな熱が残っていた気がした。今触れ合ったのは確かに手と手であるはずなのに、どうしてあんなにもあの人の手は暖かいのだろう。人の手があんなにも暖かいのだということにも、は衝撃を受けていた。
「昔からそうなのか」
「切り落としたくなるくらいかどうかは、わからないですけど」
「冗談だ」
「はあ……」
「なんだその目は」
「別に何も」
 と、急にポケットの中に何かが侵入してくる。何か、とはもちろん仙蔵の手であったのだが、その時のには何が何だかわからなかった。冷たく一人ぼっちだった、しかし中心に何かじんじんとしたものの残る手に、直に、その熱がふれたのだ。暖かすぎて熱かった。肌が燃えてしまうかと思った。燃えるでなくとも、その皮膚が裂けてしまうことくらい、本当にありえてしまいそうなほどの痛みがの神経を突き刺した。
「い、ひっ」
「なんだその声は、色気のない」
「だ、だって、て、てが」
「むう、本当に冷たいな。これでも温まらないとは」
 ぎゅうと小さくなるばかりのの手のひらは、すっぽりと仙蔵の手に包まれた。しかしの手は温まるどころか、仙蔵のその手の熱を吸収していく一方だった。これでは申し訳ないと思ったは、すぐにポケットからその手を引き抜こうとする。が、それを仙蔵の手は許してくれない。
「これじゃ先輩の手、冷たくなるだけです」
「違うだろう、お前の手が暖かくなる」
「その気配がないから言っているんです」
「生意気な奴だな。この私の手ごときでは、お前の手を温められないというのか」
 言い方が、ずるいともいます。そう言いかけてやめた。何を言っても無駄である、そういうときの顔をしている。はすぐにそれを見抜いていた。口をつぐんで、でも何か言わなくちゃと思って、もごもごと口を動かすだけで、実際に言葉はなにもでてこない。下を向いて、足の指先をもぞもぞと動かした。しかしそこに意識はいかない。ただどんどん冷たくなっていくばかりの仙蔵の手のひらが気になって仕方がなかった。
。私はどうも負けず嫌いのきらいがあってな」
 仙蔵はどこかおかしそうな声で言う。
「お前の手を、どうにかして、この手で温めたい。どうだ?」
「どうだって、言われても」
「これから何年かけてでも、どうにかして、この手を温めよう」
「……ええと」
「俺の手を振り払わないでくれるか」
 見つめられている。視線を感じて、が顔をあげると、予想に反してたいそう真面目そうな顔がそこにあった。やはり恥ずかしくなって顔を俯けおうとしても、どうにもその視線がそれを許してくれない。仕方がないからは、ポケットの中の固く閉じた掌を、開いて仙蔵のそれに絡めることで、仙蔵の質問に答えることにした。


 視線をわずかに下げると、そこにはただぶらぶらと宙をさまよう自分の掌がみえる。相変わらず冷え症は改善されず、しかし今やその手を温めてくれようという手もなし。いや、温めようと『していた』手ならば、今もすぐそこにある。姿が見えないのは、ポケットの中に隠れてしまっているからだ。
 仙蔵の温かい手は、付き合って二年ほどでの手を温めることをあきらめた。
 夏の間はの指にきらりと光る指輪も、冬の間はその指から姿を消す。かわりにの胸元で、きらりと光り続けている。冬の間指につけていては、指輪までもひんやりと冷やされてしまってかわいそうだ、と、仙蔵から指輪への慈悲である。慈悲というより、それこそ負けず嫌いが顔を出したというところだ。俺の愛で、この女の指を、温められないはずがない、なんて、ちっぽけな意地である。
 今では冬に手をつなぐことは、仙蔵に固く禁じられている。幼いころから熱を発したことのない冬のの手のひらは、それでもまだあの時の衝撃を、待ち望んでいる。
「ねえ、仙蔵、手、つながない?」
「いやだ」
 眉間に何本もしわを寄せて、心底嫌そうな声音で、心の底から出された言葉だった。


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