陽に暖められた廊下を、留三郎は静かに歩いていた。
 傍らに見える庭は真っ白な雪で覆われ、その上を小鳥が踊る ように戯れ踊っている。それを見守る空は、冷たく冴えた空気 でどこまでも澄んでいた。
 こんなに穏やかな風景を見るのは、随分久しい気がした。
 忍術学園を卒業して数年。そう時が経った訳でもないのに、 今よりもほんの少し心が自由だった頃を思い出して目を細める 。
 自分を慕ってくれた後輩達の無邪気な笑顔、共に卒業した心 腹の友らの笑い声。そしてそんな日々に色鮮やかに残る―― 一人の少女。
「こんな所で、何をしていらっしゃるんですか」
 背後から掛かった静かな声に、留三郎はゆっくりと振り向い た。
 誰何する必要はなかった。何故ならその声は昔から、そして 今でも。留三郎の心に色を注すたった一つの音だ。
「分からん……だが恐らく、お前に――に会いに来た」
 そう言って笑って見せると、記憶より大人になった想い人は 強張った表情を緩ませ、泣き出しそうな顔で微笑みを返した。

 を促して、留三郎は彼女と二人、並んで縁側へと腰掛ける 。
 いつの間にか鳥は飛び立っており、庭には跡だけが残ってい た。それを眺めながらの静寂はけして居心地の悪いものではな く、ただ安らぎが満ちていた。
「会わないって言ったのに」
「言ったなぁ、お互い」
 視線を交わして、小さく噴き出す。
 数年振りに言葉を交わしているというのに、会話の調子はす ぐに合った。まるで、会わなかった数年間などなかったかのよ うに。
 しかし年月は確実に過ぎている。自分も変わったが、の風 姿も随分と変化していた。
 初めて出会った時を思い出す、腰まで伸びた純黒の髪。変装 ではない化粧に慣れたのだろう頬や、紅の差された唇。少し吊 った目は相変わらず猫のような愛嬌があったが、その表情や仕 草には昔にはなかった嫋やかさが見え隠れしている。
 そういえば彼女は、友人の五年生らといても見咎められない よう男装している事が多かった。留三郎と会う時もその延長線 のような所があったので、もしかしたらあの頃に気付いていな かっただけで、元からはその女性らしさを秘めていたのかも しれない。
 ついマジマジと見つめていると、留三郎の視線に気付いたの かが首を傾げた。
「どうかされました?」
「ん? ……綺麗になった、と思ってな」
「なっ!? 何ですか急に!」
 ぱっと顔が伏せられたが、その頬が真っ赤に染まったのを留 三郎は見逃さなかった。
 初心な所は昔とちっとも変わっていない。それに安心感を憶 える。
「せ、先輩は口が上手になられたのでは……っ?」
「まぁ処世術としてある程度は回るようになったと思うが…… これは本心だぞ」
 恥じらいにの身が縮こまる。その様子が愛しくて、留三郎 は前よりももっと小さくなったその身体を胸に抱き寄せた。
「こんなに綺麗になっているのなら、もっと早く会いに来れば よかった」
「食満先輩……」
「会いに、来れば……」
 腕の中にある確かな温もり。何故この温もりを手放していら れたのだろう。
 自分の考えの至らなさに唇を噛む。肩を掴む手には、いつし か力が籠もっていた。
「……っもう!」
「いてっ!?」
 どすっと鳩尾に一撃。武闘派を謳う留三郎にはたいした痛手 ではなかったが、それでも不意の衝撃に軽く咳き込んだ。
「わたしは先輩が先輩らしくいてくれればそれで良いんです!  そりゃ、寂しくなかったって言えば嘘になるけど……」
 真っ直ぐな視線が絡まる。何よりも惹かれた、強い、強い瞳 にただ留三郎だけが映っている。
「あなたが同じ気持ちでいてくれた、会いたいと願ってくれて いた……それが知れただけで、十分です」
……」
「後悔なんて、らしくないですよ」
 もしかしたら望んでいたのかもしれない。彼女がそう言って くれる事を。
 気の利いた事を言えない代わりに、を強く抱き締めた。
 頭を撫ぜた手は後輩にしていた時と同じように優しくて、情 けなさと申し訳なさに留三郎はやっと泣けた。

 どれくらい時が経ったのか。
 青かった空は赤く染まり、陽はもう山の向こうに半分隠れて しまっていた。
 もうすぐ自分達の時間が来る。そしてそれは別れの時でもあ る事を、互いに知っていた。
 どちらからともなく身体を離し、立ち上がる。
「あの時に言った事を反故にしてしまうようだが、お前に会え て――嬉しかった」
「……はい、わたしも」
「だけどこれが最期だ」
 彼女と、そして自分に言い聞かせるように留三郎は笑った。 上手く笑えていないのは分かっていたが、それでも笑った。
 は「はい」と声を震わせながら頷いて、それでも留三郎よ り上手に笑い返してくれた。
 頬にうっすらと残る涙の跡を拭ってやりたかったが、拳を握 り締めてそれを堪えた。
「怪我には注意してくださいね。戦うのもほどほどに」
「ああ」
 世界がだんだんと闇に染まる。
「お金の無駄遣いとかしたら駄目ですよ。一銭を笑う者は一銭 に泣くんですから」
「分かってるよ」
「あ、それと――」
 ついでのようにそう言って笑ったは、今までで一番綺麗に 笑っていた。


***


 それは、まだ二人が雛ですらなかった頃だ。
『食満先輩、"眠りの家"ってご存知ですか?』
『なんだそれ?』
『この間、三郎達と怪談話した時に出てきた話なんですけど』
『お前、確かその類は苦手じゃなかったか』
『うっ……そりゃー苦手ですけど、仲間外れ嫌だったんですぅ ー』
『相変わらず仲良いなぁお前ら。で、どんな話なんだ?』
 他愛ない日常の、下手をすれば簡単に零れ落ちていくような 語らいだった。
『はい。何でも、眠っている間に会いたい死者の元へ誘ってく れる家なのだとか』
『はー、ありそうな話だ』
『――ねぇ、先輩。先輩はそこに行ってみたいと思われます? 』
 ふと潜り込んだ真剣な音調が、下級生の声が遠くに聞こえる 縁側には似つかわしくなかったのを憶えている。
『死んでも会いたいって、思いますか?』
『……思わない。互いに生きて会うからこそ意味があるんだろ う。そんな逢瀬は――哀しい』
 それは本心だった。偽りなんてない、考えて出した答えだっ た。
『……わたしもそう思います。この戦乱れる世で、それはとて も難しい事ですし、綺麗事でしょうけど』

 だが今更ながらに思う。
 自分達はこの時から既に、そんな綺麗事すら厭うほど、御伽 草子のような事を願うほど、互いを深く好いていたのだと。

『それじゃあ俺達は死んだら会えないな』
『ええ。だから食満先輩、生きてくださいね』
 そう言って冗談めかして二人で笑っていたけれど。

 ――何故あの時、自分は「当たり前だ」と頷くだけでなく、 「お前も」と言ってやらなかったのだろう。

 留三郎が卒業して数年後、は病でひそりと逝った。
 死に目にも会えなかった。


***


「留三郎」
 呼ばれて、留三郎は草むらに身体を横たえたまま軽く手を上 げた。起こすのはどうにも億劫だった。
 呆れたような溜息が降ってきて、見上げていた空が親友の顔 に変わる。
「僕は外出を許可した憶えはないぞ」
「奇遇だな、俺も許可された憶えがない」
 その返事が気に食わなかったのだろう。割と整った顔が微笑 んだかと思うと腕がぴしゃりと叩かれた。
 その拍子に身体の至る所が悲鳴を上げて、留三郎は苦痛に呻 いた。
「もうちっと労わってくれませんかね、伊作サン……」
「大人しく言う事を聞く患者なら、僕だって優ぁしくするんだ けどね」
 この不良患者、と舌を出されてはこちらに分が悪い。怪我を した時に伊作に逆らうのは、昔からの経験上得策でない。
「……悪かった」
 伊作はその謝罪で一応は納得したのか、特に戻れと強要する 事もなく留三郎の横に腰を下ろした。
 温かな風が吹き、耳元で草が鳴る。陽は穏やかで、浮雲を数 えているうちに欠伸が込み上げた。それを噛み殺していると、 隣の友人が無防備に大口を開けている声が聞こえて、留三郎は くっと喉を震わせた。

 任務中に大怪我をしてから一月。
 町医者を営む伊作の所へ転がり込んだ時は既に意識は朦朧と していてよく覚えていないが、曰くとても危険な状態だったら しい。
『君まで逝ってしまうのかと思ったよ……っ!』
 目を覚ました時、そう言って伊作は泣いていた。

 思えば自分は死に急いでいたのだ。
 への、後悔と恋慕で盲目になって。
 けれど彼女は、それを望まないと言った。自分らしくいてほ しいと。
 あのひと時の逢瀬がただの夢であっても、ならそう言うだ ろうと留三郎には思えた。

 ゆっくりと立ち上がる。やはり節々が痛んだが気にはならな かった。
「さって、伊作の苦い薬でも飲むかなー」
 おどけた様に言うと、伊作は一瞬目を丸くしたがすぐに立ち 上がって嬉しそうに笑った。
「その代わり効果は保障するよ! 良薬口に苦しってね」
「限度があるっつーの」
 その味を思い出しながら笑い、伊作と肩を並べて歩いていく 。
 ふと、もう一度空を仰いだ。の好きだった、彼女に似合う 、青い青い空を。

 はもういない。会う事も叶わない。
 けれど留三郎はこうやって生きていく。
 彼女を想い。それでも立ち止まらず。

『天寿を全うしてくださいね。そうしたら迎えに行ってあげま す』

 "眠りの家"を去る寸時。
 なんでもない事のように約束されたその瞬間が来る時まで。



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