先生、と上半身を起こした彼女は屈託なく笑った。ぱっと周りが明るくなるような笑顔は、半年前の触れただけで溶けてしまう薄雪のような微笑を知る人間からすれば驚くべき変化だった。伊作は釣られて表情を和らげ、枕元で風呂敷包みを解くと彼女をもう一度布団に横たわらせた。薄い襦袢の上から体に触れる。
「先生、わたしもうだいぶいいの。父さまからお聞きですか?」
「ああ、そうみたいだね」
「昨日なんて外に出ていいって言われて、兄さまたちと花見に行ったの」
 十年ぶりくらいに自分の足で走った、と嬉しそうに語る少女の細身はしかし、伊作が彼女を診始めた半年前と変わらず骨と皮ばかりだ。彼女の言う十年前に、この城の主の妻、少女の母親は亡くなった。不治の病だったという。それをきっかけに塞ぎこんだ彼女が母親と同じ症状を訴えだしたのは葬儀から一週間足らずのことだった。各地の名高い医者が呼ばれ、伝説のような蓬莱の薬が金と権力に飽かせて集められたが、彼女を死の床から救い出すことはできなかった。学園を卒業したのち、何の変哲もない平和な村で開業していた伊作に声がかかったのは偶然と呼ぶべきなのだろうか。少なくとも城主が伊作に何の期待も抱いていなかったのは確かだ。しかし彼に掛かるようになってから、少女の容態は目に見えてめきめきとよくなった。疎んじていた日の光を好むようになり、固形物を口にしても戻さなくなり、挙句床を離れて出歩けるまでになった。事実この部屋を訪れる前に伊作は城主に呼ばれたのだが、あの無骨な男が目尻に浮かんだ涙を隠しもせず、それでも精一杯の威厳を保って礼を述べる様に心を打たれたのだ。伊作はぽんと彼女の額に手を置いた。外で遊びまわる子供のような体温を手の平に感じる。伊作との面診があるのでこうして大人しく病人のように横になっているが、本当は動き回りたくて仕方がないのだろう。こちらを見上げる瞳は未知への好奇心で輝いている。
「・・・・・・きみの気持ちはわかるけどね、今が一番肝要な時期なんだから。ちゃんと養生してくださいよ」
「わかってる! でも先生がよく言うでしょ」
「病は気から、ね」
「・・・・・・わたしの病気はきっと、気の持ちようなんかじゃどうにもならなかった。先生、ほんとにありがとう」
 改めての礼に照れくさげにはにかんで、少女は薄い掛け布団を頭の上まで持ち上げた。顔を赤くする彼女を無理にいじめることはせず、伊作は薬包を一週間分枕元の盆に載せて、ではお大事に、と年頃の少女の部屋を辞した。彼女の乳母に傅かれんばかりに礼を言われるのをどうにか押し留めて、門のところで恐らく伊作を待っていたであろう彼女の三つ違いの兄に会釈を返し、数刻歩き続けて少女の父親の領地から出ると、道中の茶屋で厠を借りて胃の中身をすべてぶちまけた。ネタばらしをしてしまうなら、あの少女は五日後に死ぬのだ。気の持ちようでどうにかなる話ではない。彼女の言う通り、あの病を治す術など存在しないのが現状だ。簡単な話である。伊作が処方していた薬は、その生き物の限界まで力を引き出し、やがてその負荷に体が耐え切れなくなる、そういう症状を作り上げる劇薬であった。まともな人間が服用すれば火事場の馬鹿力状態が数日間続き、その後に糸が切れたようにぷつりと事切れてしまう。彼女が起き上がることができたのは、今の彼女の限界が、起きて、立って、笑うことだったと、それだけのことだ。ふう、ふう、と伊作はしばらく息を荒げていたが、落ち着くと茶屋の主人に頭を下げ、更に数刻街道を歩いて家路に着いた。伊作の住む村は分かれ道に看板まで立っているようなごくごく普通の村で、その村外れに彼と妻の住む家がある。
「お帰りなさい」
 土間で飯を炊いていたが戸を開けた音に振り返ったが、伊作は無言で彼女を囲炉裏端に強引に引き倒してその袷に顔をうずめた。忍者なんて向いていないのはわかっていたから、卒業したらこの世界から足を洗って、在学中に殺めた命の分まで人のために生きたいと思った。そうして流れ着いたのがこの村で、はここの女だった。なにかと世話を焼いてくれる彼女がどうしようもなく愛おしく思えて、彼女の親に頼み込み、番って一年もしないうちに彼女の腹には子が宿った。あと一月もせずに生まれるだろう。だがどこから聞きつけてきたものか、こちらは足を洗ったと思っていた「その筋」に声を掛けられたのがちょうど半年前の話だ。久々に目にした忍びはどこだかの城に属しているようで、逆らえばを殺すと言った。どうしようもなかったのだ。あの少女は自分が毒を盛られていたことにも気付かず安らかに逝くだろう。城主も兄も乳母も伊作に感謝こそすれ、恨むことなどあり得まい。何もしなければあのままひっそりと死んでいたはずの彼女が、僅かとはいえ人間らしい生活を取り戻すことができたのだから。だからこそ、伊作は本当に死んでしまいたいと思う。どうして死ぬのがあの少女なのだ。どうして自分が逆らえば殺されるのがなのだ。は伊作がやっていることを何も知らないし、罪のない少女の命と引き換えに自分が救われているのを知れば絶望の下に命を絶ってもおかしくない。それでは、駄目なのだ。誰を犠牲にしてもは生きなければならない。その犠牲となるのが無垢な少女ではなく自分であればどれだけよかったことかと嘆いても、彼女の手元にあの薬を置いてきた今となっては何を言ったところで醜い自己弁護にしかならないのだった。「お父さんは甘えたですねえ」 何も知らないがくすくすと笑いながら腹の子供に話しかけた。伊作が縋りつく体はあの少女よりも柔らかい母の体をしている。

 

 

 

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