暑苦しさで目覚める朝。充分な睡眠は得られず、汗ばむ肌が不快感を加速させる。
忍なら、どんな環境でも休息をとれる体にしておくに越したことはないだろうが、未だにこの張り付く湿気と体内に入り込んでくる熱には辟易する。
目覚めの悪さをごまかすため、彼女は桶と手拭いを携えて井戸へ向かった。
釣瓶で汲んだ水をひっくり返して手持ちの桶に移す。
石造りの囲いに、飛沫が細かい染みをつくった。
浸した木綿を絞ると、捩った方の指を伝って今度は地面にぼたぼたと垂れる。
汗のかわりに水が接着剤となって、首筋に残る髪が鬱陶しい。
長いそれを後頭部でまとめたとき、ようやく結い紐を忘れてきたことに気づいた。
「か、珍しいな」
両腕を顔の横にあげていたせいで、近づいてくる影には気付かなかった。
潮江の声の方を向くと、彼は左肩に掛けていた緑の上着をざっと丸めてに投げ渡した。咄嗟に受け取る自分が恨めしい。
潮江は頭から豪快に水を被る。吸い込まれなかった水が、足元に小さな沼を作り出した。
平らになった前髪を邪魔臭そうに掻き上げる。毛先から流れる雫は重力に従い、精悍な肉体の曲線をなぞった。
「風邪引くわよ」
「夏風邪を患うのはなんとやら、だろ」
「だから注意してるんじゃない」
こんな会話もお手の物。もちろん、手元にある布を皺のつかないように畳み直すのも同時進行である。
「お前な……そんなことを言うのはこの口か?」
彼は呆れたようにため息をついた。にゅっと左手が伸びてきたかと思うと、右頬に鈍い痛みがはしる。
利き腕でないところをみると加減はされているのだろうが、出し抜けのことに涙が滲む。
無理に喋ると間抜けな音が出るに決まっているので、黙って睨んでいるとにやりと笑われた。全く、無遠慮な男だ。
それからすぐに、無事生還したほっぺたを押さえながらは言う。
「嫁入り前の娘になにするのよ」
「どうせ俺がもらうんだから良いだろ」
「……そういう問題じゃない」
卑怯だ。言いたいことは裏々山ほどあるのに、もごもごと口の中で渦巻く。捻られた反対側も赤く染まっているに違いない、という余計な確信があった。
それにしても。ふと横切った思いは第三者の登場によって中断された。
「お前ら、公衆の面前だぞ」
含み笑いの立花に気づき、慌てて離れる二人。
流石に6年間を共に過ごしている気心が知れた仲とはいえ、その気質自体が厄介だ。
彼はその反応に更に口元の笑みを深めた。
いつから居た、とはあまりに恐ろしくて聞けない。
照れ隠しかどうかは知らないが、上着を無造作に奪い取る潮江。
ユキがお前を捜していたぞ、という伝言だけ受け取った後は文次郎に丸投げしようと思う。
物理的には自分で歩いているはずなのに、視覚的には何か抗い難い第三の力が加わっているような二人を見送った。
朝帰りと間違えられてはいけない、とも早く長屋へ戻ろうとする。持ってきたはずの手拭いは見つからず、ただ桶だけが転がっていた。
潮江が一緒に掠めていってしまったようだ。容れ物の底に付着した泥を洗い流していると、先程の疑問が思い返された。
どうして私は、文次郎が昨晩大人しく寝床についていたと思ったのだろうか。
やはりと言うべきか、くのたまも既に忙しない朝を迎えていた。
からかいを含んだ声を右から左へと受け流していく。他人事だ、と隣でくすくす笑う友人もいつものとおり。
「だーかーら、違うってば!」
「照れない、てれない」
これも何度目になるか分からないが、子供を見守る親のようなこの雰囲気は諸手を挙げて歓迎できない。
突然の大声に、雀がちゅんと鳴き声だけを残して飛び去る。
一羽に率いられて、残りも歪な袋槍形を描きながら、こちらの動きを見張ることのできる距離に落ち着いた。
遠巻きに様子を探るのがまた何とも。
「いいじゃない、浮ついた話があるのはこの学年じゃだけなんだから」
「そうそう、いい恋しなよ」
次々と囃したてるくのたま。
貴女たちこそ、という言葉はぐっと飲み込んで、曖昧に笑った。
わざわざ溝を深くするほど彼女は愚かではない。
卒業後の進路が明らかに皆と違うと予想される。
向こうもこちらも、踏み込んでいい領域を見誤らないくらいの分別は持ち合わせている。
境遇は違えど、さほど分け隔てなく生活できるのは、女が持つ機微を察する能力ゆえんか。
視界の端に、茶色がかった髪が揺れるのを捉えた。
「先輩!」
ユキが少し息を弾ませながら駆け寄ってくる。いくらか年上の者に囲まれようと、物怖じしないこの子は好きだ。
彼女が入学当初に対忍たまの罠にかかっているところを見つけて以来、姉妹のような関係を保っている。
どうしたの、と尋ねる間もなく、左腕を引っ張るユキ。
その場に残されたのは「暫くお借りします」との言葉と、後れ毛が白いうなじに乱雑に垂れ下がる背中だけだった。
動線から外れた場所。隠れる必要はないが、他の人に聞かれないように距離だけはとる。遠いところから土井先生の呆れと涙まじりの怒声が聞こえた気がした。
事の次第を聞いたは陰りを覆い隠し微笑む。
「そう、教えてくれてありがとう」
たいしたことではないと、ユキはゆるゆると首を横に降る。
どこか力ないその仕草。それじゃ、と立ち去ろうとする彼女を呼び止めた。
「ユキ、夜更かしは乙女の敵よ」
「……分かっちゃいます?」
悪戯がばれた子供のようにばつが悪い顔をしながら、軽く目元を押さえる。
まだ年若く、化粧に慣れていないのだから無理もないが、局所的に白粉を厚く塗りすぎて余計に目につくようになっている。
それに加え、微かににおう魚油の独特な臭気が、夜遅くまで書を読んでいたか、もしくは字を書いていたか、を表していた。
おいで、と両掌で顔を包む。親指でぽんぽんと軽く周りとなじませてやる。
目を瞑って大人しくしているその姿に、なんだか恋人同士の儀式みたいだ、と声を漏らした。
「先輩、そんな趣味はありません」
「心外ね。私だって無いわよ」
暗い空気を飛ばすように、顔を見合わせてぷっ、と吹き出した。
昼の鐘が青い空に響き渡る。
拇指の移り粉。
隙間なく張り付いたそれを拭おうとするが、生憎持ち合わせていない。
仕方なく別の指で擦ると、白が薄く伸び広がった。
二日間、頭の中から消えていた手拭いを、覚えている間に返してもらおうと潮江の部屋に行く途中、木の上に腰掛けた立花に出会した。
彼が持つのは二本の巻物。
思わず貸出禁止の印がついていないか確認してしまった私は悪くないと思う。
訝しげな視線の位置に気付いたのか、得意げに鼻で笑う。
それすらも絵になるのだから、美形というものは得である。天は二物を与えないなんて法螺を吹いたのは誰だ。
「文次郎か?」
「ええ、もちろん」
生い茂る木の葉をざっと揺らして薄暗くなった天から降りてくる。
それが間違い探しの始まりの狼煙。
新しい火矢の実験だとその手にお得意の火器を一つでも持っていてくれればよかったのに。
火がない所に立つものがある。
「立花はどうしてここに?」
「あやつに聞け」
急に追い出されてはかなわん、と肩をすくめる。
おそらく立花はが来ると思って早々に退散したのだろう。
彼の言動から察するに、文次郎が人を迎える準備をしていたのは確かである。
だが、今晩は約束していない。
立花に別れを告げて、死間を命ぜられた忍のように重い足取りで目的地に向かう。
彼等とは違い、退くという選択肢は与えられているのに、見つけられない振りをした。
普段なら天井裏から入り込むが、今夜だけは真正面から。
東からのぼりつつある不気味なほど大きい月の光は、禍々しい橙色をしていた。
この右手は誤りではないだろうか、戸を前にして一度力無く下ろす。
ぎゅっと握り直した指がそろりそろりと壁を取り除き始めたなら、後戻りはできない。
いっそのこと、と一息に開けた扉が勢い余って跳ね返るのが間抜けだ。
口腔は渇いているのに、唾を飲み込む音が部屋に響く。
「なぜお前が、」
男の掠れた声。その低音で囁かれたのが遠い昔のようだ。
廊下から差し込む月明かりだけが三人を浮き彫りにする。
潮江の腕に隠れて、組み敷かれている女の顔は見えない。
どうせなら衝立の向こうにすればいいのに。使えるものは使うのが忍ってものなんでしょう。
変に生真面目なこの男は、同室の立花に遠慮でもしたのかしら。ねぇ、愛しい人。
「邪魔したわね」
「おい、待て…っ…、」
かたん、と倒れる蝋燭。焦がす前に失せた熱。
文机の上にある手拭いを取る。これで私の物じゃなかったらとんだ笑い種だ。
お願いだから、やめてちょうだい。そんな顔をするのは反則だと思うの。
潮江の制止も聞かず、忍たま長屋を飛ぶように駆け出す。全ての欠片が嵌まった。
しかしどうやら一枚の絵にはならず、また崩れ落ちてしまったらしい。
何も知らない幼子ならまた根気強く積み上げていくのかもしれないが、砂の城は潮にさらわれてしまった。
あぁ、冗談でしょう。
誰も居ないところでしゃがみ込み、皺のついた手拭いに顔を埋める。
誰が吹き込んだのか知らないけれど、臭いのきつい油を使わないのは良い案だったわ。
本当は、知っていた。ユキの噂話が嘘ではないことくらい。
全部ぜんぶ、分かっていた。行儀見習いの私。卒業すればどこかに嫁ぐしかない私に、手を出すわけにはいかないことくらい。
けれど、それでも。
おかしいでしょう。魚油でも荏胡麻油でもないのに。移り香だというのに。
どうしてこんなに、鼻につくの。
蝋燭のにおいがする
作品を執筆いたしました、たまです。
雲行きのあやしい話ではありましたが、ここまで読んでいただき誠にありがとうございました。